歴史ある田子のにんにく栽培の歩み
生まれ故郷の青森県田子町は青森、岩手、秋田の県境、十和田湖の南東に位置する山奥の盆地にある人口5000人あまりの小さな町です。
この地域特有の太平洋から流れてくる夏場の冷風「やませ」により、米が不作或いは全滅し、たびたび飢饉に見舞われた貧しい地域でした。
冷害に比較的強い小麦、蕎麦、ひえ、あわなどを作りながら暮らしを営んできた地方で、何か特産品として育てられないか?」という思いで取り組み始めたのが当時(昭和40年前後)まだ全国的には作付け面積が小さかった「にんにく」でした。
その後、町をあげて特産化に取り組み「土作り」「人作り」「栽培管理」「肥料管理」「温度管理」などあらゆる点において「にんにくと言えば田子」という評価を得るに至ったのです。
寂れゆく故郷への想い
私が生まれたのは昭和41年(1966)、そのころの田子町は人口も1万人ほどあり、
田舎ながらもそれなりに昔は活気があったものでした。
お盆になれば出稼ぎに出ていた父ちゃん、兄ちゃん、都会の学校に通っていた若者などがこぞって故郷に帰ってきて、子供心にもそれは賑やかな気分になり、彼らを迎える祖父母たちも指折り数えて家族の帰郷を待っていたものでした。
しかし、ご多分に漏れず少子高齢化の波には抗えず、現在の田子町は人口も6000人を切ってしまい、帰るたびに寂れていく様子を目の当たりにするに至って「何かできることはないのか?」という自問を繰り返すようになってきました。
にんにくで田舎と都会の人々とのつながりが出来るのではないのか?
そんな考えが次第に強くなっていくに従って何か具体的な方策を考えよう、と思いを巡らした結果「日本一とも言われる田子にんにくで地元の生産者と都市の消費者を直接結ぶことによって双方にメリットを創出し、田子にんにく生産者の持続可能性を高めることが出来るのでは?」と考えました。
運営会社の有限会社二葉産業とは、福島に本社があり主に繊維事業を営んでいる会社です。
そんな会社の代表の飯原の出身地でもある田子町に田子事業所を設置し、
代表自ら地元農家と交渉して、提携することになり「八福」として今に至ります。
また、近年ではさらに、幅広く田子にんにくの周知をするために、
東京事務所も設置し、都内の企業やスーパーや店舗、マルシェなどのイベントにも
出店させていただいております。
高齢化が進む田子町でも、何とかにんにくを通して、
もう一度、活気ある街にしていくことが、
田子事業所の使命だと感じております。
飯原 輝久